- 高松田村町教会の皆様をお迎えしての礼拝でした。2025/7/13(日)
≪今週のみ言葉≫ 「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」 列王記第一17章1節
説教題:『生きて働かれる神』 聖 書:列王記第一17章1~16節
今週から8月末までのカリキュラムは「預言者」についての学びです。B.C.8世紀といえば、イスラエルは偶像崇拝時代。バアルやアシェラのニセ預言者のはびこる中に、神は「生きておられる」ご自身を示すために預言者エリヤを用いられました。偶像の神とは、「人のわざにすぎない。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。喉があっても声を立てることが出来ない。これを造る者も信頼する者もみな、これと同じ。」(詩篇115・4~8)そのような中で偶像崇拝者アハブ王にむかってエリヤの電撃発言でした!「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私の言葉によるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」(17・1)
Ⅰ.鳥を通して養われる生ける神(2~7)
「主のことば」ー「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。あなたはその川の水を飲むことになる。私は烏に、そこであなたを養うように命じた。」(3・4)「そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。」(5)なんと!何羽かの烏が朝に夕にエリヤのところにパンと肉を運んで来るではありませんか!!肉食の鳥の烏がです!エリヤはそのケリテ川の水を飲んだのでしたが、預言の通り露も雨もありませんでしたので、「しばらくすると、その水が涸れた。」(7)のでした。当然のことでした。エリヤはどうしたでしょうか!私が関西聖書神学校の神学生の時のことでした。1972年卒業でしたから、もう53年以上も前のことになりますが、当時男子寮舎監をされていた向後昇太郎先生が、小柄なチャキチャキの江戸っ子であられましたが、「川の水が涸れてもねーエリヤはそこにいたんだ!」と叫ばれたのを思い出します。エリヤはただ「主のことば」によってのみ動いていたということです。
Ⅱ.一人のやもめを通して養われる生ける神(8~16)
「主のことば」ー「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこに一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」(9)〈やもめですか~〉と、エリヤは思ったでしょうか! しかも、話し合っていく内に、そのやもめはまことに貧しくて、かめの中の一握りの粉と、壺の中にほんの少しだけある油で、パンを調理し、息子と二人でそれを食べて死のうとしているところだったのです!その彼女に、エリヤは確信をもって「主のことば」を語ります。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さな菓子を作り、私のところに持ってきなさい。その後で、あなたとあなたの子どもに作りなさい。イスラエルの神、主がこう言われるからです。『主が地の上の雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」(13、14)<エリヤのことばどおり><主のことばどおり>(16)になりました。ハレルヤ!エリヤの神は生きておられます!主は、生きておられます!
<お知らせ>
▷本日の礼拝には、高松田村町教会の方々が合流下さり、「ユバル7+」の皆様のバンド演奏と共に主を賛美でき感謝しました。
▷礼拝後は、7/26(土)27(日)の、久しぶりのCS一泊キャンプのことを中心として、CS教師会が行われました。次世代への良いバトンタッチのため、祝福をお祈り下さい。
▷7/14(月)15(火)と坂出グランドホテルにて『愛と希望の祭典・四国』のインストラクター講習会が行われます。7/14(月)19:15~20:25、「賛美と祈り、Q&A.」のリードを小野牧師が担当します。お祈り下さい。