• 父の日の礼拝でした。 2026年6月21日(日)

         説教題 : 「キリストの寛容」      

         聖     書 :マタイ17:14~18, マルコ9:14~29

     「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。

     愛は自慢せず、高慢になりません。」コリント人へ手紙第一134

    愛、喜び、平安に続く4番目の御霊の実は「寛容」です。それは人間の持つ忍耐や寛容ではなく、キリストが私たちに持っておられる限りない忍耐、計り知れない寛容のことです。(1テモテ1:16)  山の上で主のお姿が変貌し、ペテロたちは栄光を目撃しました。(マタイ17:1~)しかし、山から下りて来られた主がそこに見られたのは不信と悲惨の光景でした。主は、「ああ、不信仰な曲がった時代だ。・・いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」(17)と嘆かれました。しかし、主は彼らを見捨てず、寛容と限りない忍耐で彼らを受けとめ、導かれました。ここに、主の驚くほどの寛容さと限りない忍耐があります。

    1,主の嘆きは弟子たちに対して 弟子たちは父親の必死の求めに応えることが出来ません。その無力の原因は彼らの不信仰にありましたが、彼らにはそれがわかりません。(19) 弟子たちは主のお名前を用いて悪霊を追い出すことができたのです。しかし、今の彼らはその恵みと信仰を失っていました。神の賜物と力は、自然に自動的に働くものではありません。神様との関係を回復し、もう一度正しく保つことが必要です。そのために彼らは祈りが必要でした。信仰は、現在進行形です。

    2,律法学者たちや群衆に対して (マルコ9:14) 主が目にされたのは、議論に夢中になっている律法学者と弟子たちの姿でした。子どもは悲惨な状況のままです。不信仰で曲がった世は、自分を主張し守ることが第1で、そこにある現実と悲惨を後回しにします。しかし、主イエスはこのような罪深い人間世界のため、何よりも一人の罪びとが救われるために来られました。今も、神の寛容と忍耐は不信と悪と偶像礼拝の世に向けられ、罪びとの救いを願っておられます。

    3,父親に対して (マルコ9:22) 父親は主イエスに助けを求め言いました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんで、お助けください。」(マルコ9:22) 弟子たちの無力さに失望、落胆していた父親は、その師である主に対しても完全に信頼できません。しかし、主はこの父親を突き放さずどこまでも寛容で、彼の不信を正して真の信仰へと導かれます。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(23) 父親は、すぐ、「信じます。不信仰な私をお助けください。」(24)と言いました。人間の罪や不信仰に対して、もし、神が寛容と忍耐を失われたらどうなることでしょう。しかし、神はあくまで忍耐して待ってくださいます。その寛容と忍耐の大きさは驚くばかりです。そして、その主の御性質が御霊の実として、この私の内にも結ばれていくのです。(2テサロニケ3:5)

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