「私は、『だれを遣わそう。だれか、われわれのために行くだろうか』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」 イザヤ6・8

ウジヤ王が死んだ年に預言者イザヤは、高く上げられた王座に座しておられる神の異象を見せられた。ウジヤの王座は空虚になった。しかし揺るがない主の王座を示され、政治の空白よりも、心の空白を見せられた。そして彼自身が「もうだめだ」と叫んだ時、祭壇の火によるきよめの恵みをいただいた。その時、主からの重荷が示されたので、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言って、お従いしたのであった。エレミヤの場合はどうであったか。彼は外部の理由のために、みことばを宣べ伝えまいと決心したのであった。しかし、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私のうちにしまっておくのに耐えられません」(エレミヤ20・9)と叫んでいる。伝道の情熱、宣教の幻は、高度な意味で、主との霊的な対決を経験した時から、底力のあるものとなるのではなかろうか。

聖書日課 祈りの風より