仕える マルコ10:35-45
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(45節)
人の上に立ち、支配し、権力をふるう。これが人の求めるところであり、残念ながら主に近く歩んでいたゼベダイの二人の子ヤコブとヨハネさえも、主の栄光の座の左右の席を求めるというありさまでした。が、「人の子」のスピリットは全く逆の姿です。偉くなりたいと思う者はみなに仕える者に、人の先に立ちたいと思う者はみなのしもべになりなさいと語られ、現実に「仕えられる」ためでなく「仕える」ために来てくださいました。さらに贖いの代価として、いのちさえも与えつくされたのです。このお方に贖われた私たちのスピリットも、これ以外ではあり得ません。このことが日常生活の中で実践されるには、ひとたび古い自分が真に十字架に主とともにつけられ、キリストとともによみがえる以外になされないでしょう(ガラテヤ2・19、20参照)。
神と共に歩む日々 小野淳子著