残暑の続いているような日々、ご自愛下さい。2021.10/17(日)
≪今週のみ言葉≫
「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
ヨハネの福音書4章14節
説教題:『永遠のいのちへの水』 聖 書:ヨハネの福音書4章4~26節
「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」(ヨハネ4・3~4) これは単に地理的に南のユダヤから北のガリラヤに行くには、その道にサマリアがあるので、というのみならず、「神の必然」と言われる言葉で、イエスはそこに出会わなければならない一人の人を見い出していたのでした。それは、「心渇いたサマリアの女」でした。
Ⅰ.また渇く水 イエスはヤコブの井戸があるスカルという町に来られ、旅の疲れから、その井戸の傍らに座っておられました。時は正午頃。そこに一人のサマリアの女が水を汲みに来たので、イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と言ったのです。ふつう、婦人たちが水を汲みに来るのは朝の涼しい頃ですが、この女は日中の暑い頃来ました。誰とも会わない時刻を選んだようです。そしてサマリア人の女である自分に「水を飲ませてください」と言うユダヤ人の男性に驚いたわけでした。アッシリアに占領されたその地域は、アッシリア人とユダヤ人との雑婚地域となり、ユダヤ人たちはそのサマリア人たちとは付き合わないことにしていた故です。「水を飲ませてくださいとあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、あなたの方からその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」(10)とのイエスの言葉に、「その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」と、いぶかりながら尋ねる女にイエスは答えられます。「この水を飲む人はみな、また渇きます」と(13)。確かにヤコブの井戸の水は飲んでもまた渇く水であり、それはまたこの世が与える快楽や娯楽、ありとあらゆる一時的な楽しみの水を示しているものです。実に、この女もそのような生活を送っていたのでした。
Ⅱ.永遠のいのちへの水 「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」(15)と、女は求めました。するとイエスは唐突にも、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」(16)と言われ、女はまたしても驚いて、「私には夫がいません。」と答えると、さらに女が驚いたことには「自分には夫がいない」と言ったのはそのとおりです」と言われ、「5人と夫がいましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」(18)と、それは渇きに渇いた女の心、また罪に満ちた心の暴露そのものでした。女は、イエスをメシア(キリスト)と信じ、水がめをそこに置いて、町へ行き人々に伝えました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(14)永遠なるお方との間を遮断していた女の罪はあばかれ、それによって、ゆるされ、永遠なるお方からのいのちの水があふれ流れ込み、泉となり湧き出たのでした。<証し>小野牧師の神学校の先輩 松浦みち子先生のお母様 泉かよ姉は86才まで牧師を招いて家庭集会を開きました。88才で脳梗塞を患い、3ヶ月間名古屋のリハビリ病院に入院。 入院中3人部屋の病室は、笑いと主にある証しに満ちていて、かよ姉の退院後、病室で一緒に過ごした若い女性が「泉さんのようにイエス様を信じて聖書を読みたい」と教会に来られ、やがて洗礼の恵みにあずかられました。かよ姉は89才で主のみもとに召されましたが、まさに姓の通り「主の泉を内にもたれ、永遠のいのちの水を湧き出された器」でした。
<お知らせ>
▷「新聞紙上」には、日々、痛ましい事件の報道が絶えません。「引きこもり」や「自死」に至る、幼い魂、若い魂の数も最多、と読むと心が痛みます。<渇いている人々>のために、クリスチャンは、また教会はもっともっと祈らねばと迫られます。
▷「香川版」には、心温まる記事がほぼ毎日載せられていて、嬉しく、感謝するものです。
▷本日は、礼拝直後に、「新会堂土地に関する意見交換会」がもたれます。神様はどのように、どこに私たちを導いて下さるでしょうか。毎日の祈りの課題です。