入学・進級、おめでとう!!!2022.4/3(日)

≪今週のみ言葉≫

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 ルカの福音書23章34節.

 次週4/10㈰の「受難週礼拝」を前に本日はさっそくに十字架に架けられた救い主イエス・キリストが発せられた七言の中の第一言を味わいます。この一句が、キリスト教のすべてを語っているといっても過言ではないように思えます。この一句が、キリストがこの地上においで下さった目的のすべてを語っていると言ってもいいようなみことばです。

Ⅰ.十字架上の苦しみ 十字架型のペンダント、ブローチ、ピアス(イヤリング)とたくさんのオーナメント(飾り)に使われている「十字架」。実は、キリスト在住の頃に支配していたローマの極刑、すなわち一番むごい死刑の道具であったのが「十字架刑」でした。裸にされ、両手両足釘付けにされ、十字の木と共に立てられました。そのままの状態で、太陽と風にさらされる。致命傷は与えられず、激痛と疲労に何時間も苦しみ、息絶えるまでには丸一昼夜かかることもしばしば、また多くの者は狂い死にしたと言われています。肉体上の苦しみのみならず、人として、周囲からの嘲り、罵り、あざ笑い、罵倒は耐え難い精神的苦痛でしたでしょう。ましてや罪なきイエスにとって、それは筆舌に尽くしがたいものだったし、加えて第四言「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイ27・46)と叫ばざるを得ない、神に捨てられる瞬間を迎えようとされていました。

Ⅱ.十字架上の赦しの祈り 本日の聖句であり、十字架に上げられて最初の第一声(第一言)がこの祈りの言葉でした。「自分を救ったらよい」(35)「自分を救ってみろ。(37)「自分と俺たち救え」(39)と、民衆、議員、兵士たち、そして両隣につけられた犯罪人の一人ですら、こう叫ぶ中でした。人々にとっての救いとは、単に十字架から逃れる程度のものでしたが、イエスは、十字架とは人々の救いのためであることをご承知で、イエスは自分を救われなかったのです。その上で、この第一言を祈りとして、父のみ前でとりなしとして発せられました。「彼ら」とは、直接には大祭司やパリサイ人、そしてローマ兵たちです。しかし「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」(ローマ3・23)とのパウロの言葉によれば、イエスの十字架はすべての人の赦しのためなのです。しかも、「自分が何をしているのかが分かっていないのです。」という、無知なのですから、との、≪完全な赦し≫の祈りでした。その祈りは、キリストの清い血(命)の犠牲と共に、父なる神に受け入れられ、その時以来、永遠に受け入れられ続けているのです!

<お知らせ>

▷日本はそろって「新年度」を迎えました。新入生を迎える幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、会社は新入社員ですが❝フレッシュ❞な空気は嬉しいものです。

▷「だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。」(コリント人への手紙第二5章17節)キリストにあって新しい人生を迎えられる方々がこの年も多く与えられますように!そして新しくされた一人一人にとっては、『日々新しい』人生です。感謝です。

▷イースター礼拝にて、受洗者、転入会者が与えられます。喜びの待ち望みの時です。その前に「受難のキリスト」の超絶した愛を全身全霊で受けとめたく祈ります。