天候不順の中主の守りを祈ります。2022.7/17(日)
≪今週のみ言葉≫
「人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」ルカの福音書12章15節
説教題: 『人のいのちは』 聖書:ルカの福音書12章13~21節
「キリストのたとえ話」の二つ目です。「ある愚かな金持ちのたとえ」です。一人の人が、ラビにたずねる如く、遺産調停の話を、イエスのもとに持ってきました。伝統的なラビの役割としては、すぐに答えるようでしたが、【イエスはこれまでのようなラビの役割を超えて自身の究極的関心を開陳する。】(『牧羊者』P.31)15節から人々への警告が始まります。「どんな貪欲にも気をつけ警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(15)コロサイ3・5には、「貪欲は偶像礼拝です。」とあり、神の代わりに物を拝むことと同一視されています。ここから「愚かな金持ち」のたとえ話に入ります。
Ⅰ.何年分もの財産。「ある金持ちの畑が豊作であった。」(16)17節から19節に、この金持ちが、心の中でどう考えたかが記されています。そこには、「私の作物」(17)「私の倉」「私の穀物や財産」(18)「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(19)とあり、ギリシャ語の「ムー(わたしの)」という言葉が並んでいます。人間のもつ利己主義の醜さが如実に表れています。これらの収穫物を与えられた神ご自身は全く視野に入れられておらず、神に代わって、富、物質がこの農夫の崇拝の対象となっています。
Ⅱ.今夜取り去られるたましい。このように考え、自分のたましいに語りかけた農夫に、神は言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(20)実際生活の中で、神を無視している人たち、神を忘れた者たちのことを、聖書は「愚か者」と断言します。(ヨブ記2・10、詩篇14・1参照)。農夫の言った「何年分も」という言葉に対応する言葉として、「今夜」と、神は切り込まれます。「いのち」「たましい」の安全は、財産や持ち物によっては決して保証されないのです。いのちもたましいも、それに必要な財産のすべても、一切は神からの賜物です。この農夫は「自分のために蓄えても、神に対して富まない」(21)、まさに「愚か者」(20)でした。
私たちの信仰のルーツ、バークレー・F・バックストン師の家系は、対照的に、真に豊かに「神に対して富む」一族でした。お互いも貧しく小さくはあっても、私たちの心も含めて一切を神に明け渡し、神の所有に帰すことができますように、それはまた「自分のために天に宝を積む」生き方となるのです。
<お知らせ>
▷先週のCS教師会では今年の夏のCSキャンプは準備不足もあり見送ることになりました。願わくは来年状況によっては教会でのお泊り会をと祈ることにしました。
▷夏休みに入る子どもたちがあらゆる面で守られますように、時間が与えられて日曜日の教会学校に集う子どもたち、中高生が更におこされますようにお祈りください。