7月最終日、最終聖日でした。2022.7/31(日)

《今週のみことば》

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」ルカの福音書15章24節

ルカの福音書15章にあるキリストの三つのたとえの三番目です。『放蕩息子』として知られているところです。実は『放蕩息子』のたとえである以上に『父なる神の愛』の最も説得力のあるたとえです。初めの二つは、「捜す神」のたとえですが、三つ目は「待つ神」のたとえでもあります。

小島伊助先生のクラスで、聖書各巻の中心聖句を教わった時、ルカの福音書の中心聖句には本日のみ言葉に続くみことば「こうして彼らは、祝宴を始めた。」(ルカの福音書15章24節)が選ばれていました。

Ⅰ.父を離れて(1~9節)。 人間はどこまでも自己本位な存在であり、自分の存在や環境がいかに神の愛と恵みの内に保たれている者であるのかに気づかないものです。この度コロナ禍で、ある程度、いえ、かなり〈当たり前でなかった〉と気づいていると思えます。二人の息子の内、弟が全く「父の心、子知らず」にて、生前に父から財産の分け前を受け、それらを全部金に換えて父を離れて遠いところへ旅立ちました。[彼が何も残さないで出て行ったということは、やがて帰ってくる可能性は一切考えておらず、父親を顧みる気持ちも一切ないということである。](『牧羊者P,43)遠い国、そこでは豚が飼われていたことから異邦人の世界へ行ったということです。お金はお足とも言われるように「放蕩して財産を湯水のように使ってしまった」(13)のでした。おまけにその地に激しい飢饉が起こり、食べることにも困り始め、豚の世話をし、豚の餌のいなご豆でも食べたいと思っても、誰も与えてはくれなかったのです。まさに困窮の絶頂の中で、「彼は我に返って言った。」(17)のでした。まさに180°のターニングポイントに来ました!深い悔い改めの心が17~19節に吐露されています。

Ⅱ.父に迎えられて (20~24節) 父のことなどみじんも顧みていなかったこの息子に対し、父は毎日愛と祈りの内に首を長くして息子の帰りを待っていたのでした。20節はこのたとえのクライマックス(頂点)です。父親の方から「駆け寄って」走り寄るのは、古代オリエントの民族からすれば驚異的なことでした、しかも、変わり果てたボロボロの息子の「首を抱き口づけした。」のでした。〈何度も口づけした、愛情込めて口づけした。〉のでした。父親に心の底から迎え入れられたのでした。息子の悔い改めの言葉を遮るようにして父は「一番良い衣」(社会的地位)、「指輪」(権威)、「履き物}(真の自由、新しい歩み)を与え、真に息子として迎え入れ、さらには「祝宴」さえ催してくれたのでした!何と圧倒的な父の愛!!

<お知らせ>

▷猛暑・酷暑御見舞い申し上げます。コロナ対策、熱中症対策をしつつ、祈って、主に守られて長い夏を乗り切りましょう。

▷本日中に「今月のメッセージ」「今月の(8月の)お祈り」「ヘッダー(ひまわり)」が更新されます。

▷8/3(水)の祈祷会は、第123回関西聖会にオンライン(YouTube)にて合流いたします。10:30~説教、工藤弘雄師、13:30~説教、畑野順一師です。教会では1Fベタニヤにて視聴します。奮ってご参加下さい!各自パソコンからも視聴できると思います。