召天者合同記念礼拝でした。 2023.4/16(日)

≪今週のみ言葉≫

 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」ヨハネの福音書11章25節

説教題:『復活の希望』 聖書:ヨハネの福音書11章21~45節

 21世紀の今はとてつもない情報時代です。正しく明るい情報ばかりではありません。むしろ人を混乱させ迷いの道へ知らず知らずのうちに引き込んでいく恐ろしい情報もたくさんあります。その中でキリスト教会の講壇から発信される情報(メッセージ)、は、すべて間違いのない本物の、しかも永遠不変の情報です。それは「愛と真実と恵みに満ちた神から、聖書を通して発信されている」からです!本日のメッセージは『復活』というテーマです。死人からの『復活』、そんな馬鹿げたこと、どうして信じられる?とは、全ての人を滅びに誘う、悪魔のささやきです。私たちは、どうしてもこのメッセージを真正面から受け止め、信じねばなりません。

 Ⅰ.ラザロとキリストの復活(本日のテキスト) エルサレムから約3kmのところにベタニアという村があり、そこにはマルタ、マリア、ラザロの三兄弟(姉二人)が住んでいて、厳しい伝道の日々の中でイエスにとっては憩いの地でした。その中のラザロが病気だという知らせがイエスに届きましたが、なお二日イエスはそのいた所にとどまりました。その後ベタニアに向かいましたが、時既に遅しで、ラザロは死んでしまっていました。頼みの綱としてイエスに知らせたマルタとマリアは絶望に突き落とされていました。イエスはラザロの死を知りつつベタニア入りをされました。マルタもマリアも「主よ。もしここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21.32)と言って涙しました。本日のみ言葉は、その時マルタに語られた主のみ言葉です。大勢の人々が二人を慰めに来ていました。誰しもが涙に暮れている中で、「イエスは涙を流された」(35)のでした。しかし、次の瞬間、「その石を取りのけなさい」(39)とイエスは言われ、「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」(39)とのマルタのことばに対して、「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40)と言われるイエスの言葉に、人々は石を取りのけました。イエスは、目を上げて、父に祈り(41,42)、大声で叫ばれました。「ラザロよ、出て来なさい。」(43)すると死人が、顔も手も足も布で包まれたまま出てきたのでした!これを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じたのでした(45)。このことはイエスご自身の身にやがて起こると、イエス自身も確信しました。その翌週の金曜日に、イエスは全人類の罪と呪いを負って十字架に架けられ葬られましたが、三日目の日曜日の早朝、父の御力により死人のうちよりよみがえらされました!その記念のイースター礼拝を先週私たちはお献げしました。そのとき以来、キリストは今も生きておられます。

Ⅱ.信じる者達の復活(テサロニケ人への手紙第一4章13~18節)

その日はいつなのでしょうか。「キリスト再臨」の日です。その日、その時を知っておられるのは、唯一、父なる神のみです。イエスさえも、「ただし、その日、その時がいつなののかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24・36)と言っておられます。その日は必ず来ます。今の天と地がなくなり、新しい天と地が到来します。その前に空中にキリストがおいでになって眠っている(死んで葬られている)信者たちがまず復活されたキリストのように、栄光の復活体によみがえり、それに続いてまだ生きている人々が一瞬のうちに復活体に変えられて(Ⅰコリント15・52)永遠に神と共に生きるのです。肉体の死で終わるのではありません。神のかたちに造られた人は、皆永遠に生きる者に造られました。永遠を「どこで過ごすか」が大問題です。あなたの永遠は大丈夫でしょうか?導きを求める方は牧師までご一報下さい。

  <お知らせ>

▶先に天に召された懐かしい方々のお写真を飾り、天上と地上との合同礼拝の時を持ちました。信仰がしっかりと継承されていきますようにとの祈りを込めつつの礼拝でした。

▶その後、墓前礼拝を献げ、納骨の時を持ちました。ここから「キリスト再臨」の時、聖徒たちが復活の栄光体として、天に携え上げられると思うと、何とも言えない希望に心躍る思いです。

▶コロナ禍で集えなかった「木曜かえるクラブ」のためにお祈り下さい。中学生になった子どもたちは部活などで集いにくいようです。かつて来ていた小学生達や、またそのお友だちが集えますように。「よい居場所」として用いられますように、お祈りをよろしくお願いいたします。