6月第一聖日を迎えました。 2024.6/2(日)
≪今週のみ言葉≫
「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」サムエル記第一16章7節
説教題:『選ばれたダビデ』 聖書:サムエル記第一 16章6~13節
本日のテキストはイスラエル第二代の王として油注がれた「ダビデ」の選びの場面です。「人の選び」と「神の選び」に思いを馳せてみましょう。
Ⅰ.うわべを見る人。 第一代の王サウルが退けられて、神は第二代の王に油を注がせようと、サムエルをベツレヘム人エッサイのところに遣わされました。エッサイとその子らを祝宴に招き、そのエッサイの8人の子らの中から選ばれた者に油を注がせるためでした。父エッサイは、まずは当然のこととして長男エリアブをサムエルの前に進ませました。サムエルはエリアブを見て「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った(6)のでした。ところがそのサムエルの思いを、主は察して言われました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」と。確かにサムエルは、長男でもあり、体格も良く頼もしくその目に見えたエリアブこそ、その人だと思ったのでしょう。霊的預言者サムエルでさえも、危うく判断を誤るところだったということです。「人はうわべを見る」ことに間違いありません。うわべしか見えない弱さを持っているということです。人生経験を積んでいき、人の心の動きや思いを自分の経験を通して次第に理解でき、心の内をのぞけるようになったとしても、やはり「神が見る」ようには、ほど遠いという人の見方であるのです。次男アビナダブ、三男シャマンと、「エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。『主はこの者たちを選んでおられない。』(10)と。では一体どこに?サムエルはエッサイに「子どもたちはこれで全部ですか。」(11)と言ったとき、羊の番をしている末の子がいるとの答えでした。
Ⅱ.心を見る神。 末の子が連れてこられました。「彼は血色が良く、目が美しく姿も立派だった。主は言われた。『さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。』(12)【ここに、いわゆる「紅顔の美少年」という言葉を当てはめるべきではない。~聖書における美しさとは、外形上のことだけでなく、優美な魅力と強い意欲、行動をも伴った者であった。イザヤ53章の主イエスのお姿をここで思い巡らすことは必要なことであろう。】(『牧羊者』(p.62)。ダビデは未成年でもあり、かつ羊を飼うという仕事は大切にされていない家族の一員か召使いのする仕事でした。彼は家族の誰からも気にも留めてもらえていない存在だったということです。しかし、神の目と心にかなったのでした。羊を飼いながらダビデの心には大牧者なる神のみこころが宿りました。そして生み出された詩篇23篇、ダビデの賛歌は「真珠の詩篇」と言われます。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(1) 【神は心を見られますが、偽善でない心、砕かれた心、混じりけの無い純粋な心で神を求める人を喜ばれるのです。】(『牧羊者』p.60)
《補足》「エッサイの息子は7人か8人か」歴代誌第一2・15では、ダビデは第7子と記されていますが、シリア語訳によれば、エリフが七男でダビデが八男となっています。(『聖書難問注解《旧約篇》』p.346 いのちのことば社)
<お知らせ>
▶主の2024年、そうです、救い主イエス・キリスト降誕(誕生)から2024年というわけです、その年もはや6月に入りました!
▶先週の祈祷会には初めての方々2名久しぶりの方々4名が加わって下さり大きな喜びでした!
▶本日は礼拝後13:00より「プロジェクト希望にむかって」委員会(新会堂委員会)が開かれます。委員だけでなくどなたも招かれています。本気で「主の宮」のために集い語り合い祈り合えますように!イエス様が「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」(ルカ18・1)とおっしゃって下さりE・Mバウンズも「粘り強い祈り」をささげるよう勧めていますので祈って祈っています。お祈り下さっている方々、ありがとうございます!