実りの秋を迎えました。2025.10/19(日)
<今週のみことば>
「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 ヨハネの福音書9章5節
説教題: 『世の光キリスト』 聖 書:ヨハネの福音書9章1~11節
キリストのなさって下さったみわざを通して『世の光キリスト』をこの世に送って下さった父なる神に感謝し、『世の光キリスト』に従う生涯を全うさせて頂きましょう。
Ⅰ.光のない世界 「生まれたときから目の見えない人」(1)ゆえに、その人は道端で物乞いをしていたのでした。まさに光のない世界に生きざるを得なかった気の毒な人でした。イエスは通りすがりに、その人をご覧になられたのでした。さらには足を止められました。そのイエスの視線の先にまで目をやった弟子たちは、イエスに、古くからある問いを投げかけました。「先生、この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」<因果応報論>でこの考えは古くから多くの国や民族の間にあるものです。【一つの結果には、必ずその原因があるという解釈です。ときにこれは、苦しみの中にある人をさらに深い苦しみの闇に突き落とし、非常に冷酷で、突き放した人生観、世界観へと導きます。】(『牧羊者』p.21) 肉眼に光のない盲目の世界と共に、たとえ肉眼が見えていても、心霊的にも心と魂に光のない世界にいた弟子たちの姿ではなかったでしょうか。
Ⅱ.光のある世界 イエスの答えは、そこにいた誰の耳にも意外であったにちがいありません。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。わたしが世にいる間は、私が世の光です。」(3~5)そう言われて、イエスは地面に唾をして、その唾で泥を作られ、その泥を彼の目に塗って言われました。「行って、シロアム(訳すと遣わされた者)の池で洗いなさい。」と。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。(7) のでした!近所の人たちや以前、物乞いをしていたこの人を見ていた人たちは驚き、当惑し、互いに「その人だ」とか、「ちがう」とか言い合いました。当人は当然「私がその人です」と言ったわけでした。「では、お前の目はどのようにして開いたのか」(10)との問いに対して、彼は答えました。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」(11)と。12節以降ではパリサイ人たちと彼、さらにはパリサイ人たち、ユダヤ人たちと彼の両親との問答が記されていますが、この人は、単に肉眼に光が与えられたのみでなく、彼の魂にも光が与えられたのでした。【「イエスという方」(11)、「預言者」(17)、「神から出ておられる方」(33)と変化し、最後には「主よ、信じます」(38)と、信仰と礼拝の対象となるのです。】(『牧羊者』p.24)
<お知らせ>
▷2026年5月4日(月・祝)5日(火・祝)に、愛媛県民ホール(松山市)に、ウィル・グラハム師をお迎えして行われようとしている、『愛と希望の祭典・四国』の本大会まであと197日と、本日の週報に記されました。毎月15日は《一斉祈祷日》として、四国中で祈りがささげられています。思いを超える多くの尊い魂の救いをと、熱く日々、祈っています!

