教会総会ならびに「新会堂建設委員会①」でした。2026.2/15(日)

<今週のみことば>「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」詩篇23篇1節

説教題: 『主の羊』    聖 書:詩篇23篇

 祈られたこの講壇からの最終段階のメッセージを迎えるにあたり、示されてきました「詩篇23篇」を6回にわたって講解説教をさせて頂きます。多くの方々に愛誦されてきているダビデの詩篇です。C・H・スポルジョンは「Psalm of Pearl」(真珠の詩篇)と表現しました。また22篇が「Cross(十字架)」、23篇が「Crook(杖)」、24篇が「Crown(王冠)」の詩篇と並べて味わわれています。この詩篇はうたわれてはや3,000年を越えています。しかし新鮮です。ダビデが少年の頃、羊を飼っていた頃の作というより、この詩の中に見られる多くの経験を重ねた上で、年を経てから、懐かしい羊飼いの少年の頃を思い起こしてうたったとの見方が強いですが、いずれにしても新鮮なのはこの詩篇がいかに多く「神ご自身」に沈潜しているかというところです。いかにわずかに「人」に向けられているか、それより「今、主なる神が何をなしていて下さるか」にのみ思いが向けられている故です。そしてそのお方が、いかに十全なるお方かが記してあるからです。

 Ⅰ.よき羊であられたキリスト 主イエス・キリストは、父なる大牧者なるお方のよき羊であられました。その姿をしばらくみことばから見ていき、同時に自らの羊としての姿をも見ていきたいと思います。

①ヨハネの福音書1章29節。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」

歩いておられたイエス・キリストを見て、バプテスマのヨハネはこのように証言しました。

②イザヤ書53章6節。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」 7節。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれていく羊のように。毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」主は義しいお方であられました。何の悪もなさらず、何の害も与えず、むしろ愛といやしと、すべてを与え尽くされ、何の訴えられる理由もありませんでした。そのお方が十字架に!不合理としか考えられない。しかしそれが、神の彼のための完全なみこころとして受け入れられたのでした。確かにゲッセマネでは、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22・42)と祈られ、「父よ、私の霊をあなたの御手にゆだねます。」(ルカ23・46)(マタイ27・46)と祈られました。そして息を引き取られました。そのようにして、神の、キリストのためのみこころを完遂して下さったのでした。私のためのあなたの完全なみこころがなるようにして下さいと祈る者が、「よき羊」であります。果たして私は、今どのような羊でしょう?!「みこころに従うこと」によって、内的深い喜びが与えられます。

Ⅱ.よき羊飼いであられるキリスト 「主は私の羊飼い。」と言うとき、それはまた<主は私のすべて>ということなのです。羊にとって羊飼いはまさにすべてです。<主は私のすべて>ということは、このお方で十分です、乏しいことがありません、と言えるのです。他の人よりもあれが足りない、これが乏しいと思うでしょうか。それでも「私は乏しいことがありません。」と言える私たち一人一人なのです。主イエス・キリストが私の羊飼いですから、十分なのです。主は私のために命を捨てるほどの愛をもって今も、いつまでも愛し抜いていて下さるのだからです!ハレルヤ!

<お知らせ>

▷「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43・19)と今年、私たちに語って下さる神による新しいことが始まりました!

▷聖餐式礼拝後、2026年度「教会総会」が行われ、続いて、「新会堂建設委員会①」がスタートしました!そしてまさにふさわしい新しい牧師先生ご夫妻が3月には遣わされて来られます。

▷「香南由佐の地に主のための礼拝堂を」「教会のないその地の多くの魂」が、礼拝の民として招かれて来られる幻を描いて祈ります!!