3月第一聖日礼拝でした。 2023.3/5(日)
≪今週のみ言葉≫
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書12章24節
説教題:『一粒の麦』 聖書:ヨハネの福音書12章20~28節
2/22㈬が「灰の水曜日」、その日から6日間の聖日を除く40日が「レント(受難節・四旬節)」で、4/9㈰のイースター前日4/8㈯までです、本日の記事は、受難節の最後の週、「受難週」の出来事です、本日の中心聖句は、主イエス・キリストによって、どのような時に語られ、どのように実践されたのでしょうか?『一粒の麦』が・・・・・
Ⅰ.死ななければ サマリアのリバイバル、病の癒し(4,5章)、パンの奇跡(6章)、きわめつけの死んだラザロの復活(11章)~人々はこのお方こそ自分たちをローマの圧政から救って下さる王に違いないと思い、ろばの子の背に乗ってエルサレムに入城される主イエスにしゅろの葉をふり「ホサナ!ホサナ!」と(われわれを救って下さい!)と歓呼の声をあげました。その様子を目にしたパリサイ人たちは互いに言いました。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった」(19)と。言わばイエスは《人気絶頂》の渦の中でした。何人かのギリシア人でさえもが「イエスにお目にかかりたいのです」と弟子たちに頼む状況でした。そういう中で主イエスが語られたのが、本日のみ言葉でした。その人気に乗じて地上の王として立っていたなら、それは「死なない」一粒の麦でした。しかし、主はしっかりとご自分の使命に堅く立っておられました。「使命」まさに〈どう命を使うか〉で、間違いのない使命に立ち続けられました。すなわち《一粒の麦として死ぬ》という使命であり、その週の金曜日に架けられようとしていた十字架の死へと雄々しく向かわれたのでした。「死ななければ、一粒のままです。」
Ⅱ.死ぬなら 「しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」その一粒の種が死ぬとは、地に蒔かれることであり、蒔いた種は姿を消してしましますが、そこから新たな芽が出て来て次々と豊かに実を実らせていくというわけです。マタイ(13:23)やマルコ(4:8)の表現を借りれば、30倍、60倍、100倍になるというわけです!それは目前に迫っていた金曜日の十字架刑の予告でもありました。さらには単に主イエスご自身の死と結実のみならず、主に従う者達の使命でもあるということです。自分に死んで、人格品性の実、奉仕の実、救霊の実を豊かに結ぶという使命です。『ベラカ』2023年1月号、25日の聖書日課に、長尾秀紀師がこのメッセージを記されました。新聖歌387番は長島幸雄師による作詞です。島根県沢谷教会でのご用のため向かう列車の中で、その地で『一粒の麦』となられた時枝スミ子姉を偲びつつ生み出されました。奇しい主の導きで、御影で本田弘慈師により救いに導かれた時枝姉は、荷物の誤送で沢谷の保健婦となられ(1945年)、1948年、橋本巽師を迎えての伝道集会を行い、28名が受洗。その第一号が高橋虎夫師、献身第一号もでした。山また山、田畑や川に囲まれたその地に今も十字架が立ち、高橋師の姪にあたる大坪羊子師が牧会しておられます。時枝姉の墓はその沢谷村を一望できる地に今もあります。一粒の麦が死んで以来75年、今も豊かに実が結ばれつつあります。(参考『十字架は丘の上に』E.W.ゴズデン著)
<お知らせ>
▶卒園・卒業・入園・入学・入社とさまざまに動きの多い3月を迎えました。神様の御目が注がれ、祝福の時となりますよう、お祈りいたします。
▶3/12㈰礼拝後には「CS教師会」が行われイースターに向けて、楽しみに備えていきます。教会学校やかえるクラブにも嬉しい動きが見えてきています。幼子を愛される神様のお働きに期待します。お祈りをありがとうございます!