夏のような秋が過ぎていきます~!  2024.10/20(日)

≪今週のみ言葉≫

「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」 ルカの福音書14章27

 説教題:『キリストの弟子として』   聖書:ルカ14章25~35

夏のような秋が足早に過ぎていく感じです。そのような中で、礼拝、祈祷会、聖会、信徒大会など、神のみことばに心の耳を傾ける時の尊さを思います。本日のテキストは、主イエスが「群衆」に振り向いて語られたところです。すなわち「わたしのもとに来る人」、「わたしについて来る人」「わたしの弟子になる人」の心構えをしかと、さとされました。どれほどの大勢の群衆だったでしょうか。確かにその中には興味本位の軽い心の人や、あるいは「御利益目当て」の人もいたことでしょう。そうしてイエスと一緒に歩いていた群衆を改めてイエスは招き、励まし、従い抜くようにと、その覚悟のほどを示されました。

.弟子への道 まずは愛情の聖別です。「自分の父、母、妻、子、兄弟姉妹、さらに自分のいのちまでも憎」むということ。そこで二つのたとえを語られました。「塔を建てようとする時、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。」(28)土台だけで終ってしまったのでは、人々の嘲りの的になるだけです。次は戦いに及んで、2万人で向かってくる敵に対し、「1万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。」(31)ということです。「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」(33

.キリストの弟子への道 この世でも音楽家であれば、著名な音楽家に師事した とか、スポーツ界であれば優れた名選手のもとで鍛えられた というように、まさに「よき師のもとにあって、よき弟子」として造られ磨かれ、大成していきます。イエス・キリストこそは「師の中の師」です。そして十字架上で完全な贖いを成し遂げて下さった救い主、贖い主です。ですから、弟子たる者たちも「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(27)と言われて、そのように招かれて当然です。「自分の十字架」であって、「他人の十字架」と比べるものではありません。キリストが「私」に負うようにと、与えてくださる十字架です。十字架ですから、痛み、恥、苦しみを当然伴うものです。しかしそうして「自分の十字架を負って」キリストについて行く時、その人はまことに「塩気」を失うことなくキリストの弟子として全うしていくことができるということです。

 No pain, No palm; (苦痛なくして、しゅろの葉なし);

 No thorns, No throne; (茨なくして、御座なし);

 No gall, No glory; (辛苦なくして、栄光なし);

 No cross, No crown; (十字架なくして、冠なし) by William Penn(ウイリアム・ペン)

    <お知らせ> 

▶10/6㈰、13㈰、14(月祝)の教会創立記念礼拝、特別礼拝、第60回記念四国聖会のためのお祈りを、心よりありがとうございました!豊かな霊の恵みと祝福に満たされ感謝いたしました!それぞれにYouTube配信されていますので、どうぞ視聴されて下さい。

▶四国の、また日本のすべての教会が、実りの秋~クリスマスへと、救霊の実を主におささげできますようにと、お祈り致します。