教区講壇交換礼拝日でした。2025.9/21(日)

《今週のみことば》

 「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」     ヨハネの手紙第一 3章2節

 説教題: 『キリストに似た者となる』 聖書:ヨハネの手紙第一 3章1~6節

私たちが、主なる神と一緒に生きるならば、私たちが思っているよりも、はるかに大きな影響を受け続けます。それは、キリストに似た者となっていくということです。

 Ⅰ. 神の子どもとされる

神様は、どうしても、私たちを、ご自身の子どもとして受け入れたいと思われました。それは、神様が私たちを大切な存在として、愛しておられるからです。神様が私たちを神の子どもとして、抱きしめ、受け入れることを妨げるものがありました。それは罪と悪、そしてその結果である死の問題です。それらを解決し、勝利されるために、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架の上で死んでくださいました。私たちが、十字架を仰ぎ見るならば、父なる神がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを覚えることができます。

しかし、1ヨハネ3:1  後半にあるように、世が神を受け入れないので、その結果として、神の子どもされた私たちも受け入れられない、ということが起こります。神の子どもとして生きるとき、ある意味で避けることができない世との違いが存在します。その大きな違いの一つに、聖書が語る希望にあります。私たちは、復活の体が与えられ、キリストと顔と顔を合わせて、生きる者とされる時に、完全にキリストのように愛することができるようになります。

  Ⅱ. 愛する者に変えられ続ける

私たちが愛する者に変えられる働きは、今、すでに始まっています。4〜6節では、神の子どもが、罪の支配から自由にされていくプロセスが始まっていることが、書かれています。4節にある罪が律法に違反することであるとは、神と一緒に歩くことをしない、生き方をしていると言うことです。そのような私たちを、神はお見捨てになりませんでした。

5節にあるように、救い主であるキリストの十字架の犠牲によって、私たちの罪は取り除かれました。そして、私たちは、再び神と共に歩くことができるように、神との和解にあずかりました。

そして、神と和解し、神の子どもとして受け入れられた私たちは、主なる神のうちにとどまり、キリストのうちにとどまる者と、されていきます。神の愛に包まれ、その恵みによって生きる時、私たちは、神のように、キリストのように愛する者に、少しずつ変えられていきます。

6節で書かれているのは、私たちが、完全に罪を犯さない人間になるということではありません。6節の罪を犯しませんというのは、繰り返し罪を犯し続けませんということです。

私たちは、罪を犯し、自己中心に陥った時にも、必ず、心を神に開き、神をみあげる者とされます。それは、私たちが、神の愛に包まれ、キリストの愛にとどまる者とされたからです。

〈お知らせ〉

▷本日は教区講壇交換礼拝日で、高松新生教会では徳島栄光教会牧師の加藤献太郎師がメッセージと取り継いで下さり感謝でした。小野牧師は徳島栄光教会礼拝でのご用でした。

▷『愛と希望の祭典・四国』の「リフレッシャーコース(牧師)」と「クリスチャンの生活と証しコース(牧師・信徒)」が、9/1㈪~9/20㈯、愛媛と徳島で行われ、祝福されました。いよいよ9/21㈰~3週間に亘って高知と香川でも行われます。カウンセラー奉仕のために大変恵まれる学びの機会に、多くの受講者が備えられますように、お祈り下さい。八栗シオン・キリスト教会、志度キリスト教会、高松新生教会を会場に行われます。