少しずつ春らしくなってきました。2026.3/8(日)

 〈今週のみ言葉〉「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」 マタイの福音書28章20節

説教題: 『友なるイエス』    聖 書:ルカの福音書23章32~43節

キリスト教と言えば、十字架、ですね。しかし、十字架は呪われた死刑の道具です。重い罪を犯した者が架けられるものです。キリストはよほど悪いことをした人ではないかと思う人もあるかと思いますが、それは反対です。病気をいやすなどされるイエス様を慕い集まる人々を見て、国の指導者が妬み、強引に十字架に着けて殺したのです。

Ⅰ.命を捨てて近づかれた主

 江戸時代の初期、肥後の国の大名、細川忠利が死んだ時、10人以上の家来が死出の旅を共にして殉死しています。小さな国日本の、その中の熊本の殿様が無くなった時でさえ、10人以上の殉死者がいたのなら、「キング・オブ・キング」と言われるイエス・キリストの殉死者はさぞかし多いと思いきや、なんとたったの二人のみです。しかも人殺しの盗賊でした。そこに重要な意味があったのです。2人の盗賊がイエス様の死に伴ったのではなく、イエス様が重罪人の死出の旅を共にして下さったのです。イエス様がこの地上に来て下さったのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2・17)と聖書にある通りです。神の子が、あえて罪人を救うために罪人に近づいて下さったのです。

Ⅱ.友となるために同じ位置に立たれた主

さらに、死刑囚を救うために死刑囚の位置に立たれたのです。ハワイ群島のモロタイ島は、昔、ハンセン病の島でした。そこへ宣教師としてダミヤンが遣わされてきたのです。彼は熱心に福音を語りました。しかし、殆どの者は聞き入れませんでした。そこで彼らに訊ねました。「どうして私の話をきいてくれないのですか?」すると彼らは「先生は健常者だ。だからそんな話ができるのだ。私たちとは住む世界が違うのだ。立場が違うよ!」と答えました。それからしばらくしたある日、ダミヤンは歓声を上げて走り出して行きました。「皆、見てくれ!これを!」と、人々にダミヤンは裸の一部を指し示しました。すると、皆が、「先生も私たちと同じになった!」と喜びの声を上げました。それからと言うもの、教会は人があふれ、信じる人が満ちてきたのです。しかし彼が召された時は、腐ったカボチャのような顔になり、召されたのです。イエス様は極悪人の友となるために、わざわざ十字架にまで下り、同じ苦しみ、同じ立場に立って下さったのです。

Ⅲ.罪人を救うため

 イエス様と共に十字架に架けられた盗賊の一人が、イエス様に願いました。「罪人の私ですが、お救い下さい。」と言うと、イエス様は「間違いなく、あなたは今日、わたしと共にパラダイスに行くのです。」と、救いの宣言をして下さいました。なんと、極悪人でさえ信じて救いを求めれば、死出の旅まで手を取って下さり、友として下さるお方です。私たちも信じ任せましょう。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイ28・20

   

〈お知らせ〉

・本日高松新生教会礼拝説教は植松敏幸師がご用してくださいました。感謝致します。

・小野牧師は「新会堂」の成った、高松泉キリスト教会礼拝説教のご用でした。御教会の献堂式は3/21㈯に予定されています。小野牧師は「祝辞」を依頼されています。献堂式の祝福をお祈り下さい。