苦しみの祈り
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」
ルカによる福音書22章42節
私のためのサタンとの霊の戦い、それがゲッセマネの祈りでした。罪人ですらその罪の呵責の苦しみは相当なもの、ましてや罪を知らないお方が罪を負う苦悩は到底測り知れません。血のしたたりのような汗の滴を流しての三度の祈り(マタイ26.44)に表れています。ついに「みこころを行うことを喜びと」(詩篇40.8)された方が「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1.29)としてご自分をささげる決断をされました。御使いの力づけ。主はただひとりで贖いをなしとげられます。苦しみの祈りは、みこころに従うという、心の深みに静かな天的な喜びを与える勝利の祈りとなりました。主は勝利者として十字架に向かわれました。みこころを知ることと、祈ることと、従うこととがそれぞれ別のことです。私の喜びもこれ以下ではないはずです。
(小野淳子著「神と共に歩む日々」より)