6月最終聖日礼拝でした。

◇牧師館より祈りを込めて    6/28㈰ 礼拝説教概要

     説教題 : 「赦し:究極の寛容」     聖     書 :ルカの福音書23章32~37

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが、わかっていないのです。」 ルカの福音書23章34節

 十字架に磔にされて、人々から異常な憎しみと反逆と侮辱を受けつつ、なお、「赦してやってください」と心底、心から叫ばれたイエス・キリストの赦しのことば。この赦しの言葉の中に主の「寛容」が表されています。それは、罪のない神の御子を十字架につけるという大罪に対して示された、神の偉大な寛容です。

1,赦せないということ 人間にとって、「赦せない」ということは極めて日常的な問題で、特別な経験ではありません。それは、おそらく誰もがもったことのある経験だからです。「復讐」をテーマにした物語が人々に人気があるのはそれを表します。みことばは、クリスチャンにも「赦せない」ことがあることを明らかにしています。(コロサイ3:13)

誰かの言葉、態度、やり方が赦せない、その不満で心のやり場のない苛立ちを持って生きている人が多いことでしょう。このような人間の現実を考えるとき、主イエスの赦しがどんなに偉大であるかわかってきます。イエス様は、そのお苦しみの死の間際において、ゆえなくご自分を憎み敵対する者たちに、「完全な赦し」を持っておられました。

2,赦すということ 人間は、聖書が示す通りにみな罪人で、その点で「お互いさま」です。他人の罪を「赦せない」と叫んでいる本人が、同じようなことをしているかもしれません。人は人を裁くことはできません。神と人間は「お互い様」ではなく、神は絶対者、全き聖と義のお方です。ですから、人をさばき、罪に定め、滅ぼすことがお出来になります。神が人をお赦しにならなくても、人は文句を言うことはできません。むしろ、赦されなくて当然なのです。十字架のイエス・キリストは、そのお苦しみの中で、父なる神に罪びとたちの赦しを祈られました。赦して当然でなく、赦さなくて当然の方が赦してくださるところに、神の赦しの大きさがあります。

3,赦されたということ  主が十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られたとき、主は誰を指して「彼ら」といわれたのでしょうか。主を殺すために画策した祭司長たち、ヘロデやピラト、ローマの兵士たちがそうでした。群衆もそうでした。また、主を見捨てた弟子たちもそこに含まれるでしょう。しかし、それだけではありません。聖書全体のメッセージから言えば、今に至るまで、私たちを含むすべての人が「彼ら」の中に入ります。イエスはすべての人の赦しを祈ってくださったのです。従って、だれでも、キリストを信じる信仰によって、個人的に「赦された」という確信を持つことができるのです。「罪を自覚した者が、自分ではその解決を望めないことを知り、キリストを仰いだ結果、与えられる神の恵みなのです。