9月第三主日礼拝でした。2026.9.20(日)

「裁きにあらず」                    ヨハネ3:17~21

 日本では「触らぬ神に祟りなし」、「神は祟られると厄介だ」と毛嫌いする人がいますが、聖書の神は愛の神です。しかし、親である神を認めない、信じない人は神の特別な恵み、永遠の命が与えられません。その事を見ても信じる者とそうでない者と、おのずと裁きがなされていると言えます。

1、信じない者の裁き 

①恐れに満ちた人生 人は生まれた時から生じる苦しみが始まり,旨く人並みにやれそうか、老いる寂しさと、思ったように体が動かないもどかしさ、また病の恐れ、その上、死のおそれなどに満ちています。

②隠された罪が明らかになる恐れ 過去に隠している罪、過ちが裸にされて明らかにされる恐れです。 第2次大戦直後、戦勝国となったフランスにおいて、戦争中敵国ドイツ兵とねんごろになったフランス女性が、フランスの男性たちによって頭から足先までの体毛を剃られ、素裸にされて真昼間の繁華街を歩かされている写真を見ました。さぞかし、恥ずかしく苦しかったことでしょう。このように、罪がすべて明らかになり裁かれることは、恐ろしいことです。

③ヨハネ8章1節~11節の事例  姦淫の罪を犯した女と、その女性を訴える男性たちのことが記されています。男たちはイエス様に「あなたならこの女をどう裁くのか教えてほしい」と迫ったとき、イエス様は「あなたがたの中で罪の無いものが、まずこの人に石を投げなさい」と答えられると、男たちは一人、また一人と消えていき、遂に誰もいなくなってしまいました。さて、この場では、姦淫という

恥ずかしい罪があることが明らかにされました。次に、逃げて行った男たちも同じように罪を犯している者であることが明らかになり、裁かれました。この事は大変苦しいことですがまた恐ろしい事でした。

2,主は裁き主にあらず  

①わたしも罰しない 石打ちの刑で殺されることを覚悟していた女性に対して、イエス様は「わたしもあなたに裁きを下さない。」と宣言され、女性を解放しています。イエス様が来られたのは、裁くためではなく、罪びとを救うために来られたのです。  ②韓国のおばあさん  かつて、この講壇に立たれた韓国の牧師さんが話されたことですが、その教会に「何でもイエス様が私に教えてくれる」という有名なお婆さんに、先生が「お婆さん、イエス様に、わたしが牧師になる前にどんな大きな罪を犯したか聞いてくれる?」と言うと「ああいいよ、聞いておくよ。」と答えて去っていきました。その後、このお婆さんに会ったとき、「お婆さん聞いてくれた?」と言うと、「ああ、聞いたよ。イエス様は『忘れた!』と言っていたよ。」とのことでした。先生は、しばらくして目から涙が止まらなかったそうです。全能で、全知の神様が忘れることなどあるのでしょうか。愛ゆえに特別にあの大きな罪を忘れて下さったのだと知り、有難くて泣けて泣けて仕方がなかったのです。聖書のへブル人への手紙8章12節に「わたしが彼らの不義に憐みをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」とあります。確かに、主は救うために来られた主でした。