2026.8.16㈰礼拝
説教題 : 「ブドウ園の労務者」 聖 書: マタイ20:1~16
このたとえ話に、戸惑いを覚える方がおられるかもしれません。このたとえを理解するために、次の質問に答えることが助けとなります。1,主権はだれにあるか 2,最も苦しんだ人はだれか 3、最後に来た(5時に雇われた)労働者とはだれのことか
1,主権は誰にあるのか 当時、労働者一日の賃金は1デナリで、主人は正規の賃金を約束通り支払いました。しかし、主人は9時、12時、3時、そして、5時から来た人にも1デナリを支払ったのです。ある人は、このところを次のように解説しています。「主人は、朝から働いた者にはその働きに応じて<報酬>として支払い、そうでない人には、<恵み>として支払ったのだ。つまり、神様の清算の方法は一人一人の「必要」に応じ、働きの量や内容より、働く人の<動機>に注目されるのです。それは、主権者である主人、神様のなさり方なのです。
2,最も苦しんだのは誰か 朝早くから来た人は、「私たちは、一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。私たちこそ一番苦しんだ」と言っているのです。しかし、5時からの人も朝早くから市場に来て立っていましたが、だれも雇ってくれませんでした。彼らは、今日の賃金がなくては家族が飢えてしまいます。焦りと失意と落胆の中にありました。そんな時、「あなたも、ブドウ園に行って働きなさい」との思いがけない好意、気前良さに、感謝、感激して働いたのです。彼らは、時間給の話もしないまま、雇ってくれる主人に感謝し、主人の好意に報いるため懸命に働いたに違いありません。私たちはいろんな苦労や試練に会い、自分こそ一番苦労し苦しんでいると思いがちです。「あなたがたのあった試練は、みな、人の知らないようなものではありません。神は、神を愛する者と共に働いて、万事を益として下さることを、私たちは知っています。」(1コリ10:13) この視点が与えられると、他の人への思いやり、また絶望から立ち上がる力が生まれてきます。
3,最後の労働者とは、だれのことか このたとえが、わからない最大の理由は何でしょう。
それは、自分を「朝早く来た人」の立場において考えているからです。「夕方、5時に雇われた人は、自分のことではないか」と考えるならどうでしょうか。見方は一変し、感謝に溢れてくるはずです。神のブドウ園で働く者は、夕暮れにやってくる人々も同じ主の救いと祝福を受けることを喜ぶはずです。主の心、主の愛と他者に対する愛と配慮があれば、必ずそうできるはずです。主の心を自分の心とする者は、自分が朝早くから来て働いている者であっても、喜べるのです。「あなたがたは、恵のゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」 (エペソ2:8-9、新改訳)

