8月第4主日礼拝でした。2026.8.23(日)
説教題:「私たちは落胆しません 」 聖書:Ⅱコリント4:7~18
パウロは、その激しい宣教活動の中で、四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打倒されました。しかし、決して「行き詰らず」、「失望せず」、「見捨てられず」、「滅ばされる」ことはなかったと言います。パウロは、試練や迫害の中で決して落胆、絶望に陥らず、むしろ、そこから立ち上がることができた理由を3つ記しています。
1、キリストにある「死の経験」は必ず復活に結びついている(10-14) 主を死から復活させられた神様が、主に結びつく私たちをも、主の復活に預からせ、新しいいのちを与えてくだいます。その復活経験は、①精神的な死の経験からの復活です。つらく厳しい苦難や試練に会うことは、それ自体が精神的、霊的な“死の経験”です。しかし、霊的な死の経験は、キリストにあって必ず復活経験、新たにキリストの命に預かるという経験へと導かれるのです。
「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝とともに喜びが来る。」(詩30:5、口語) 辛く耐えがたいのは、この苦しみの夜がいつまでも永遠に続くと思うからです。しかし、どんな暗い夜も必ず朝が来ます。神が新しい命と喜びを与えて下さいます。 ②肉体的な死の経験からの復活 死んだ人間が新しい栄光の体をもって復活するのです。人間の死は動かし難い厳しい現実です。しかし、キリストは「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われます。
2、外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくなる(16) 「外なる人」とは、「土の器」(4:7)と言われる私たちの肉体のことです。年齢を重ねると体の衰えを感じ、土の器は確実に弱くなりやがて壊れてしまいます。しかし、素晴らしいことに「私たちの外なる人が滅びても、内なる人(霊的な命)は、日々新しくなるのです。年を取ってからは、この「内なる人」が勝負です。内なる人とは、はこころや精神活動ではなく、信仰者のうちに宿る霊的な命、永遠のいのちです。
3、 軽い艱難は働いて、永遠に重い栄光となる(17) 地上で私たちが経験する艱難、苦難は、やがて、神の前に出るその日、比べることが出来ないほどの重い栄光に変えられるのです。キリストを信じ、お従いしていく中で経験する苦しみや試練、艱難は、もはや意味のないものではなく、やがて、神のもとで比べ物にならないほどの栄光に変えられるのです。
「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を止めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」(2コリ4:18)

