第三主日礼拝2026.10/18(日)

<今週のみ言葉> 「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」  ペテロの手紙第一 1章2節

説教題 「選ばれた人々」  聖 書 ペテロの手紙第一1:1~2

 

 「神の選び」と「世の寄留者であること」は深くかかわっています。 神に選ばれ、世から救い出され「御国の民」とされた者は、もはや、この地上では旅人であり寄留者なのです。2節では、神の選びについて4つのことが記されています。

1,「父なる神の予知のままに」 

「予知」とは、前もって、あらかじめ知ることです。父なる神は、私たちのことを前もってよく知っておられ、そのうえでお選びになったのです。私自身よりはるかに私のことをよくわかっておられます。そして、私たちを愛し、選んでくださいました。(マタイ10:30,へブル4:13,詩篇139:1~4,♪357「何ゆえ御神は」)父なる神の予知による選び。これは、わたしたちの選びの土台です。

2,「聖霊による聖別によって」 

ご聖霊が働かれ「聖霊による聖別を通して、神に選ばれた者にふさわしい歩みが導かれていきます。聖霊は自分の罪を知らせ、十字架を示し仰がせ、罪の赦しの喜びを与えられます。神から離れていること、高慢、愛のないことに気づかせ、深い悔い改めに導かれます。<聖別>とは、自分という存在が自分のものではなく、神のものであることを知り、神に自分をささげ、自分を神のものとして生きることです。聖霊はそのように私を促され、まことの平安と自由、ほんものの祝福へと導かれます。

3,「キリストに従うように」 

 私たちはイエス・キリストを信じています。しかし、「信じる」ことは、「従う」ことでもあるのです。私たちが選ばれたのは、イエス・キリストに従うようになるためです。パウロは、自分の働きは「すべての異邦人の中に<信仰による従順>をもたらすため・・」と言っています。(ローマ1:5,16:26)「信じること」と「従うこと」を切り離してはいけません。 信じるだけなら、自分のために信じ、自分の欲のために神を利用するという自己目的化された信仰になってしまいます。そのような信仰は、キリスト教の形を借りた“偶像礼拝”、“偶像教”になります。

「イエス・キリストに従うように・・」は、神の選びと救いの目的であり結果なのです。

4,「キリストの血の注ぎをうけるように」 

 私たちの良心が自分の罪を自覚し、十字架のキリストを仰ぐとき、キリストの血によってその罪が赦され、きよめられたことを知り、喜びと平安が与えられます。信仰者の歩みの中で、この経験は繰りかえされ、「キリストの血の注ぎ」は、さらに深い恵みときよめ、信仰の確信へと導きます。キリストの血の注ぎを受けて、神の民とされ、神の働きにいそしむ者とされていきます。そのような「キリストの血の注ぎをうけるように」と、私たちは神に召されたのです。(へブル9:14,22)