9月聖餐式礼拝でした。2026.9/6(日)

説教題 かろやかな歩み  重荷の選択  マタイ 11:28、29、30

 だれもが疲れている時代です。日々の生活で生きづらさや疲れを感じ、何となく生きることが辛いと思うこともあるでしょう。私たちが負っている重荷には、「負いきれない重荷」、「負わなくてよい重荷」、「負うべき重荷」があります。 

1負いきれない重荷

 罪の重荷 (ローマ7章15~25) パウロは神から離れた人間が善を行うことが出来ず、罪の奴隷となって生きる他ないことを、うめきながら言い表しています。しかし、この重荷を、神自らが解決してくださいました。御子を十字架につけ、「罪」を完全に赦しきよめて、ご聖霊によって生きるものとして下さいました。1ヨハネ1:9、ローマ8:1) 

死の重荷 罪の刈り取りは「死」です。肉体が朽ちるだけでなく、魂が永遠の裁きを受けて滅びることです。キリストは十字架に死に、3日目に復活され、私たちの罪の赦しと永遠のいのちを与えられ、復活の体と永遠のいのち、天国を約束してくださいました。

2,負わないでよい重荷 

負わなくてよい重荷、神様が負わせていない重荷を、私たちは自分で負っていることがあります。①律法主義 形式主義、完璧主義、人の評価を気にする生き方は人を疲れさせます。②思い煩い 心配事や思い煩いはモグラたたきのようです。過度の心配や思い煩いは、自分が自分で何とかしよう、自分の人生は自分がコントロールしようとする態度です。神に委ねるとき、神が心配してくださいます。1ペテロ5:7、マタイ6:25~34) 

3,負うべき重荷 「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(39)

もう一つ新しいくびきを負うのでしょうか。そうではなく、「わたしのくびき」といわれるイエス様のくびきに「取り換える」ことです。しかし、どんなくびきでもくびきはいやだというのが私たちの本音ですが、現実はそうではありません。全てのくびきから自由になってわたしの思うままにやっていくことが自由だと言いたいのですが、私たちの自由は簡単に「放縦」になってしまいます。本当の自由と安らぎは、私があるべき姿になれたとき初めて訪れるものです。本物の安らぎは、「負いやすく、軽い」と言われるお方のくびきに入り、魂の導き手と一つにされ、そのお方と歩調を合わせて歩み出すとき、はじめて訪れるものなのです。 負うべきでない重荷を主のもとに下ろし、負いきれない重荷は主に委ね、負うべき重荷を主のくびきに入ることによって負っていきましょう。 そこに、軽やかな歩みがあります。