7月19日(日)第三主日礼拝でした。
<今週のみ言葉> そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 ルカの福音書23章34節
説教題 : 「キリストの柔和」
聖 書 :マタイの福音書27章11~14節、ルカの福音書23章33~39節
今日の御霊の実は『柔和』です。キリストに見られる「柔和」を十字架の場面から学びましょう。
1,ピラトの戸惑い
ピラトは、紀元26年~36年の10年間、ユダヤ総督でした。キリストの十字架は、紀元30年の出来事です。礼拝で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け・・」と唱えるたびに、神の御子と群衆の間で揺れ続けた一人の人間のことを思います。ピラトにとって、イエスは、これまで一度も会ったことのないタイプの人間でした。ピラトが知っている人間は、ローマ総督の彼におもねり、どこか油断できない者たちでした。脅せば従い、甘く出ると総督である自分を利用しようとするのです。しかし、イエスは全く違ったタイプの人間でした。ですから、彼をどう扱ってよいのか全くわかりませんでした。「それには、総督も非常に驚いた。」(14) ピラトの驚きは、祭司長たちの偽りの訴えに対するイエスの沈黙でした。理不尽な訴えを次々に受けていながら、一言の弁解もしないイエスは、ピラトにとって驚きそのものでした。
2,沈黙に見る キリストの柔和
福音書の中に主が沈黙されたことが出てきます。①意味のない議論の挑発に対して(ヨハネ 8章4~6) ②単なる好奇心や興味からくる求めに対して(ルカ23:8,9) ③ののしりやあざけり、侮辱に対して(ルカ22:63~65) 主イエスは、問かけてくる人々に無関心で、冷ややかであったのではありません。まして、怒りや復讐で沈黙をしておられたのでもありません。主は、その時その時、意味を持ち愛をもって沈黙しておられました。その沈黙の心が、ついに表わされたのが、主の十字架の上のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか、わかっていないのです。」・・ここにキリストの柔和があります。 十字架の主イエスに向けて、周辺にいた人間がみな口々に同じことを言いました。「イエスよ、もし、神の子なら自分を救え。十字架から下りてみろ。」 口をそろえ、繰り返し十字架上の主に発せられました。これは、「十字架の救い」を砕こうとするサタンの挑戦でした。しかし、主イエスは、一度もお答えにならず徹底して沈黙を守られました。主の沈黙の秘密は、正しくさばかれる方、つまり父なる神に任せ、父の御心に従い、愛と憐みにより、人の悪と罪をその身に負って、十字架で死ぬことによって救いを完成するという、神の御計画に忠実であられたことです。(1ペテロ2:22~24)
*語るべき時には明確に語る
主は、いつも沈黙しておられたのではありません。語ることと沈黙することとを明確に区別しておられました。 議論やおしゃべりは、その人の「柔和さ」を試す場であり、気をつけないと「柔和さ」を失うきっかけにもなります。(2テモテ2:24,25)

